足らざるを知れって言いたいの。(取るに足らないことごと)

昨日の夢は2本立てで、久しぶりに観たあとの虚脱感みたいなのがあった。
ひとつは尊敬している作家さん(という設定、たぶん実在しない)が常日頃からよく嗜んでいるというお風呂があって、何かと思って覗いてみればバスタブ一面に規則正しく並ぶ物々。じっくりまじまじと見ると、ひしめきあっていたのは大きなミミズの群れでした。気づいた瞬間ぞっとして、だけど好きな人に嫌われたくないから否定もできず、それでも誘う作家さんを前にしてわたしはミミズの波に片脚をつっこむことさえできない。
で、もうひとつは大変個人的な内容なのでとりあえず省くが、しかしまあ、夢の中身だけみるととても不衛生な感じもする。

だけどもだけど、当人としては実はそんなでもなくて、結構健やかに、毎日を過ごしている気であるのでした。




さて、今年もますます、終わる感じのしているこの頃。
このぶろぐで振り返りたいことはまだいくつかあって、特に今年は本当によくライブに行きCDを買い音楽に触れた年だったから、そういう事々をもっと書きたいなと思っている。
12月も4週目になれば幾分落ち着くだろうか。状況と身体と心の落ち着き、それぞれには結構なタイムラグがあって、それらじゅんぐりを全て経過しようとすればあっという間にたな卸しとか新しい品々みたいなのがやってくる。結局社会に出るということは24時間営業です。せめて、早く、だらりと年越しのお蕎麦でも食べたいものだ。


しかし、今年はあんまり本が読めなかった。というよりは、積読の消化が結構多くて、新刊を探しに本屋さんをうろうろという時間があまり無かった。それでもなんか心に残っている文学の場面がいくつかあって、例えば川上未映子対談集「六つの星星」で松浦理英子と話していた身体感覚のことなんかはとてもよく覚えている。
身体の気持ちよさみたいな本能感覚的快感を覚えるのって、歯を抜いたあとの穴の剥き出しの神経につーっと触れたときのなんとも言えないような気持ちのよいあの感覚と、あとは性行為ぐらいのものですよねっていう話。たった数行の松浦さんのこの表現に、何度も読み返してしまうような共感と引力があるなあさすがだなあと思った。

この対談そのものが、わたしの本能、神経感覚にひしひしと訴えかけてくる。すこぶる気持ちがいい。そうだ、文学とか音楽とかそういういわゆる‘ぶんかけい’なものの何が好きって、わたしはその神経にひびくような恍惚、感覚を侵す興奮の虜なのだ。
ちょうど、走る人が走る苦痛をやがて快感と思うように。得体の知れないそれらの正体をすこし解き明かそうとして一体になるとき、あの感覚は語源の意味そのままのエクスタシー。

Perfumeが「恋は心のスポーツ」と歌っていたがまさにそのとおりで、サブだろうがカウンターだろうが、カルチャーと称されるものに触れようとするのは運動を通しての悦びと通ずるものがある。



以前に感想を書いた綿矢りさの「勝手にふるえてろ」の一文で、そういえばこんなくだりがあった。


がむしゃらにがんばってきてふと後ろをふり返ったとしても、やりとげた瞬間からそれは過去になるんだから、ずいぶん後から自分の実績をながめ直してにやにやしても、まあ、そんなでしょ、べつにたいして幸せじゃないでしょ。逆にちょっとむなしいくらい。
 だから手に入れた瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりきりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎて、野蛮です。足るを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う。足らざるを知れって言いたいの。足りますか、足りません。でもいいんじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。

足らざるを知れっていいたいの。
まさに足らざるを知ったこの1年を、いろいろあったけど、わたしはとても嬉しく思うし、あと数週間、努めて元気にやっていきたいと思う。足らざるを知る毎日は、些細なことできらきらとしている。楽しいです。


以上、何を言いたかったか?要するに、なんかとりあえずアウトプットがしたくて、がんがん書きなぐってみました。
文章を書くことも、わたしにとっては贅沢な快楽だなあ。



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勝手にふるえてろ (文春文庫)

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