母体回帰もしくは赦しとしてのNOT FOUND

学生時代の自分が知ったら心底驚愕すると思うのだけれど、今度のMr.children@宮城のツアーに参戦することになっ(てしまっ)た。ap bank fes '12以来ミスチルに触れる機会が多くなり、やはり恒常的に聴くわけではないが、名曲をたくさん作っているのだなあと今更感じ入ることしばしばとなった。スキマの大橋くんもミスチル大好きで、そう思い起こしてみれば影響受けまくりやろ!ライブ観てもその歌い方桜井さんでしょ!と思うことが本当によくある。w



わたしが好きだなと思うのはどちらかと言えば‘マスタードチルドレン’と称されている頃のほうで、その爛熟期のころなのかな、それともいわゆる‘カスタード’になり始めたころなのかな、微妙な境だけれども、そんなタイミングでリリースされた「NOT FOUND」を最近よく聴いてしまう。
自分が小学生のころに相当流行って、メロディなんか自分でもびっくりするくらい頭の中にきちんと入っていたのだけれど、最近歌詞をまじまじと読んでみてびっくりした。こんなに内省的な歌だったんだね。もっとあまあまなラブソングwなのかと思っていました。

わたしはどちらかと言えばテキスト論者寄りなので、この曲が桜井さんのプライベート云々の時期に作られた曲だとかいうのはこの際あまり重要なこととは考えていない。けれどそれを抜きにしても、この歌詞を読んでざっと感じるのは女性を巡っての葛藤と自己内省、ひいては正当化というわか りやすい心の在り方であろう。

僕はつい見えもしないものに頼って逃げる
君はすぐ形で示してほしいとごねる

という歌いだしこそ、オーソドックスな恋愛ソングのように感じられるけど、


矛盾しあった幾つもの事が正しさを主張しているよ
愛するって奥が深いんだなぁ

次のここ。もうここから既に正当化っていうか言い訳が始まる。笑
愛するゆえの気づきと言えばもちろんそうなのだけれど、じゃあ今までの愛とはなんだったのだろう、愛が深いと発見するに至らせたのは何なのか、という話になってくる。

あぁ 何処まで行けば解りあえるのだろう?
歌や詩になれない この感情と苦悩
君に触れていたい 痛みすら伴い歯痒くとも
切なくとも 微笑みを 微笑みを

恋人同士が互いに解りあう、ということだけと読めばそれまでだが、決して「君」のことだけに限定されていないのがたぶん肝。「君」以外にも、 解り合えていないものは恐らく沢山ある。
しかもこの歌詞を読む限り、相当な苦労を要する愛情であることが見て取れる。「この感情と苦悩」にぶちあたるとき、求めるのは「君」。触れていたい、微笑みがほしい、と思うところに、どうしてもわたしは母性への強い欲求を感じてしまうのである。。いやらしい意味じゃなくてね。結局、複雑な愛情の行き着く先として、「君」という女性の癒しに全ての昇華を求めているというか。解決し得ない問題だからこそ、どうしようもなく苦しいからこそ、君のそばに在ることで己のすべてを赦してほしい、という潜在下の欲求を感じるのであります。


で、

愛という 素敵な嘘で騙してほしい

とか言ってしまって(そりゃそうだよね現実に立ち返れば「痛みすら伴い歯痒」いわけだからねw)

自分だって思ってた人格(ひと)が また違う顔を見せるよ
ねぇ それって君のせいかなぁ

君のせいにすんなww 愛のせいにもすんなww
でもまあ、やっぱりここでもこの恋愛による気づきと正当化があるわけで。


あと どのくらいすれば忘れられんのだろう?
過去の自分に向けた この後悔と憎悪
君に触れていたい 優しい胸の上で
あの覚束無い子守歌を もう一度 もう一度

何を忘れるのかと…。
一番のサビにもあったけれど、この恋愛の周辺にはやはり色々大変なことがあったようですw
後悔くらいはいくらあっても、懺悔だなんて穏やかでない表現はなかなか無い。少なくとも当人の中では激しく苦悶するような何かしらがあって、 そこに縛られ続けているのは明らか。
で、その行き着く先はやはり「君」。しかも今回は「優しい胸の上」「子守唄」ときた…。ここに母性への回帰を感じずして何を感じろというのか。「君」は愛情の在り方について気づかせ考えさせてくれるだけでなく、その葛藤を赦し解き放ってくれる存在でもある。君の胸という女性の身体性、子守歌という女性の精神性。どちらにも寄りかかって寄り添って、主人公はそこに安楽を求めようとする。それはまるで幼いころにまどろんだ、母体への憧憬ともいうような。

昨日探し当てた場所に
今日もジャンプしてみるけれど
なぜか NOT FOUND 今日は NOT FOUND

どんなに苦悩してもそうそう見つからないものらしい。。。


ジェットコースターみたいに浮き沈み

それはそうなりますわね…っていうか本当に、いろいろあったんだろうなあ。この主人公。。ここの精神構造だけは女の子みたいだね…w
そして最後の大サビに向かうわけですが、

目の前に積まれた この絶望と希望

絶望・・・w
やっぱり相当大変だったみたいです。絶望とまで言い切る何か。しかし希望があるのも確かで、そこにまた寄り添う「君」の母性。それに横たわっていたい、苦楽をともに生きてゆきたい、自分の所業をどうにか昇華させてくれる場所であってほしい。彼女という象徴としての母性、母体への回 帰(いじわるな見方をすれば逃避だったり退避だったり)が、常にこの曲には歌われているように思う。
そこに人間味を感じて多くの人は共感するし、この曲そのものにわたしたちは赦されるような気がする。ああどんな生き方であろうとも人は弱く、 だからこそ人の温もりを求めて支えあおうと模索し続けるのだなあ、と。


テキスト論云々と冒頭に書いた。でもこうやって歌詞をひととおりなぞってからMr.childrenの当時に立ち返ってみると、やっぱりその頃の桜井さんは色々考えるところがあったのだろうなと思わずにはいられない。
それが正しいことか間違ったことなのかは文字通りNOT FOUNDでw、ともすればそれは過剰なまでの自己防衛・自己保身のための音楽ともとられかねないのだが、そこに普遍性を持たせてしまうのがどうしたってミスチルの凄いところである。


探してみるとこの人(たち)の楽曲には、そういうある種の恋愛についての正当化の歌詞が極めて多い(ように思われる)。自分の生き方に素直というか、生き方と作るものの世界が完全にリンクしてしまう類のクリエイターなんだろうなと思う。
そういうバイアスの中で見てしまっているというのは多分にあるし、それって全然テキスト論から外れてるじゃんって話なのですが、それにしても、極まった事象(と推測されること)でも表現の仕方によっては普遍性を獲得し得るということを改めて気づくに至った。
EXILEさんの「Ti Amo」ではそれとしか捉えられないことも、「君が好き」では多角的に受け止めることができるというこの表現力の豊饒の差異。(Ti Amoが悪いといっているわけではない。どちらもありで、でもこんなに違いがあるということ。)


いつかまたきちんと研究してみたいな、と思うこの歌詞ですが、いよいよ4月のライブが楽しみになるのでした。
観たら観たで、絶対ほの字(死語…)になるんだろうなと思っておりますw 乞うご期待(`・ω・´)



Mr.Children 1996-2000

Mr.Children 1996-2000