愛の夢とか/川上未映子

結構前に、未映子嬢「愛の夢とか」読了しました。
こういう感覚的短編が、この作家さんには合っている様な気がするよ。


いちばん好きだった、「アイスクリーム熱」。
なぜか頭の中で、主人公の女の子が読者モデルのAMOちゃんでドラマ再生された。アイスクリームだからか、と後から気付いた(AMOちゃんのブログの名前はあもすくりーむ)
でも、ちょうどそれくらいの年端の女の子の、勢いと高揚感の心持と若いゆえの(ほほえましい)軽薄さが、なんともこの作品の主人公とよく合うなあとも思う。


結局なんだったんだろう、と思う、瞬間的な浮ついた恋心。
アイスクリームのようにとてつもなく甘く、はかない時間の滋養。といえば短絡的すぎるかも知れないけど、でもこの若い恋愛の浮揚感覚みたいなものを、うまく表現していてとても好きだった。


そしてたぶん、この2人がもっと年齢を重ねていればきっとセックスしていただろうし、付き合うか否かは成り行き任せだけど、こんな乾燥した感じの緊迫感はなかったはずだ。
コミュニケーションの種類としては濃厚で交わり(身体的なではなく)の深いもののほうが断然いいはずなのに、実際深く心に刻まれるのは、友人以上の未遂に終わった関係のほうだったりする。
そういうことを、ふと思わされた。


余談だけれど、これを読んだときのシチュエーションが個人的にとてもいいものでした。
あの照明の感じとか時間の流れ方とか、なんというかすべて完璧すぎてこの先二度とないだろうなっていうくらい完全な幸福の状態を保った空間で読書をした。
他の人から観たらなんでもない場面だけど、わたしとしてはとても良い時間だったんだよなあ。
そんな補正もあって、この本はとても好きです。


そもそもそんな読書状態こそ、アイスクリーム熱的なものなのだけれど。




愛の夢とか

愛の夢とか

ギャンブル/椎名林檎

今でこそ洗練されてきらびやかなイメージであるけれど、
出現当初の椎名林檎と言えばまるっきりの際物系解釈ばかりがされていました。
メンヘラ御用達と言うようなイメージも今よりずっと深かった。


体調を崩してしまい、そんな中聴く初期〜中期椎名林檎は特に染み入るものがある。
「平成風俗」を中古で安く買えたので、最近車の中でよく聴いています。


「この世の限り」はもちろん良い曲で思わず口ずさんでしまうのですが、なぜか今回いいなーと思ったのは「ギャンブル」だったよ。




帰る場所など何処に在りましょう
動じ過ぎた
もう疲れた
愛すべき人は何処に居ましょう
都合の良い答えは知っているけど

声を出せばどなたかみえましょう
真実がない
もう歩けない
灰になれば皆喜びましょう
愛していたよ
軽率だね




…そりゃメンヘラとも言われるだろうよ…w
と歌詞を読みながら改めて思ったが、やっぱり弱っているときとかは妙に染みてしまう。
「軽率だね」のパンチ力と言ったら無い。



平成風俗(初回限定盤)

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映画「ヴァイブレータ」 (とてもネタバレ)

お久しぶりです。
もっとずっと書いていない気がしたんだけど、見てみたらまだ3ヶ月程度の停滞だったのですね。それほど、濃密な3ヶ月ではありました。

GW前に書いたものが未だアップされないままだったので、すこし加筆してあげてみます。
映画の話。


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GW中は1本だけ、それも何故今更これだったのかは自分でもはっきりしないが、そういえばまだ観たことないなあと思ってレンタルしに行ってみた。近年邦画史においてエポックメイキングだったと誰もが言うであろうこの作品も、気付けば公開から10年が経っていると知ってびっくり。何がエポックメイキングかと言えば、諸々あるだろうけどどうしたって「ゼロ年代映画界における寺島しのぶ大森南朋の発見」というその一言に尽きると思う。10年経った今観ると、尚更その凄さがわかる。2人は今よりも当然若く、しかし他の俳優には絶対的に代え難い存在感と技量と度胸 がある。

そして結果論だけど、自分の今の年齢の今の時期に観たのは適切だったと思った。10代の頃に観ても、たぶんただのエロシーンありロードムー ビーにしか感じなかったような気がする。それくらい、ある程度の経験と年齢(と言ってもわたしはまだ岡部の年齢にすら追いついていないけれど)を重ねた頃合で無いと咀嚼できない部分をうまく炙り出している作品だった。



ところで近年のバトルヒロインアニメ論みたいなことを語るときに、しばしば

「ピンチの時には男の人が助けに来てくれる過去の魔法ヒロイン」
に対しての
「男の人の助け無しに自分たちの腕っぷしで敵を倒してしまう現在のヒロイン」

という対比がされる。前者が主にセーラームーン、後者はプリキュアのことを指しているのだが、要するにプリキュアには助けにきてくれる王子様がいない。女の子だけで全てを完結させてしまえる自立性、恋愛の要素を戦いの場に持ち込まない非ロマンス性。
もちろん単純に比較はできないし(ついでに言うとわたしは完全にセーラームーン世代です)、この話になるとたぶん否応にも現代のフェミ論云々という話が出てきてしまうので、それはまあ今回は置いておくことにする。
なんだけれども、「ヴァイブレータ」を観ていたら、不意にそのことを思い出した。岡部希寿という男は、主人公の怜にとっては確かにある種の王子様だったのだ。だけれど彼は、一生全力で守ってくれるわけでも甘い言葉を囁くでも正しいことを教え込むでもない。奥深くに入り込んでくることはないけれど、ただ限りなく優しい。



後半、岡部の使うアマチュア無線を触ってみたことを契機に精神のバランスを一気に崩してしまう怜。ひとしきり喚きもがいた後、岡部はラブホテルで温かいお風呂を用意してくれる。背中を流し、抱きしめてくれもする。怜の心の声は言う。

「この人が優しいのは感情じゃなくて本能だよ。感情が無くとも優しくする。柔らかい物には優しく触る。桃にそっと触るのとおなじこと。動物みたいなもんだ。本能、本能。でも桃傷んでてても気にしない奴とかさ…いい男じゃん、こいつ…」

岡部の優しさが本能、と言い切るその言葉に腹の底から納得してしまう。そうそう、この人は無条件で怜に優しくする。深追いしない代わりに、放っておきもしない。触って欲しいときに触って欲しいところに触り、そして触らせてくれる。好きになれば、きちんと好きになってくれる。寄り添って、怜の心の震えに共鳴してくれようとする。
トラック運転手と言う仕事を選んだことについて「そりゃあ学歴が無いからでしょう」と岡部は答えていたが、優しさにも学歴は関係ない。学歴の代わりに社会の(アウトローな)酸い甘いを知ってきてしまった彼にしか与えることのできない、丁寧な労わりがある。


感情を爆発させながら「わたしのこと殴ってよ」という怜。もうここらへん、見ていて苦しくなる。でもとても共感してしまう。そんな彼女に岡部が返す「殴れねえよ。俺お前のこと好きだし」という一言。その言葉だけで、怜に入り込みながら観てしまっている自分自身までどれほど救われたような思いがしたことか。過食嘔吐でアル中で満たされない身体の中を、物理的ではないものが満たしてくれる。

最後に食堂で初めて顔と顔を向き合わせて対面して、食事をしながらの会話もとても印象的。
「食えよ。食わないと吐けないだろ」と言いながら箸を進める岡部。
「わたしのこと好き?」と聞く怜に、「好きだよ。お前は?お前は俺のこと好き?」と聞き返してくれる岡部。
男がいるのは嘘、と言う怜に、自分が妻子持ちであることもストーカー被害のことも嘘だと白状する岡部。
実際はどこまで本当でどこまで嘘かわからない。もしかしたら好きじゃないのかもしれないし、本当は結婚だってしてるのかも知れない(ちなみに原作だと、妻子やストーカーは実在するという設定らしい)。

でもこのときの岡部には、それらをまるで疑わせないくらいの誠実さがある。やり取りが誠実だってことではなくて、怜に対する向き合い方がとても誠実だということだ。それらまるごとひっくるめて、やっぱり本能的な優しさが彼にはある。



出会ったコンビニに戻ってきて、72時間の‘航海’に別れを告げる。そのときの岡部の顔(わたしには憮然として見えた)が、またとても印象に残った。本能的なものだったかも知れないけれど、本当に怜のこと、愛してしまっていたんじゃないのかな。「ずっとトラックに乗ってていいよ」って言ってくれてたのは、優しさ以上に結構本心だったんじゃないのかな。


その3日間でなにが変わったかと言えば、眼に見える形では何一つ変わっていない。過食嘔吐だって、またしてしまうかもしれない。だけど、自分の内側を観ようとしてくれる1人の人と向き合うたったその数日間の中で、生まれ変わったように心持ちが一新することがある。そういう清清しさと安堵を、この作品は穏やかに内包している。



まー結局南朋さん目当てで観たんだけれど、やられてしまいました。この南朋さんは文句なしにかっこいい!かっこいい、ていうか、もう、好き。w
岡部という男の人を好きにならない女の人っているんだろうか。


でもやっぱり、最後に一緒にならない、お別れ、っていうのがこの話を好きだと思ったミソなんだろうなあ。自分の身体のなかみをきちんと見てくれようとした岡部との別れは、それまで積み重ねてきた苦しい自分との決別だったんだな。岡部の前で服を脱ぐということは、一枚一枚、怜にかぶさったものものを捨てていくということだったんだとおもう。





文句なしにいい映画でした。いいもの観ました。よかった。



ヴァイブレータ スペシャル・エディション [DVD]

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椎名林檎「ありあまる富」

義務教育を受ける前後の段階から老いるに至るまで、本来道徳の規範みたいなものは一貫しているはずである。それでも歳を重ねるに従ってそのグレーゾーンだったり許容の範囲が広がっていくのはその方が生き易いからで、同時にそうしなければ世の中が廻っていかないことも沢山あるからだ。
人としての行動規範が何らかの事情で歪むとき、それは当人にとって利益になるか不利益になるか、至極両極端などちらかの結果にしかならない場合がおおよそだと思う。

例えばどう頑張ってもうまくいかないとき、とか、不条理だと思うとき、とか、絶対に間違っているのに物事が運ぶとき、とか、言葉にしてしまえば単純だが、生きていけばそういった場面は矢継ぎ早にやってくるもの。
自分を納得させようとして、わたしはよくこの曲を聴く。








この曲の頃の椎名林檎は、まさに眼に見えないものの価値、についてよく唄っている。そういう歌詞が非常に多い。
だからこそ一連の流れで感じ入るところも多いのだが、とかく物理的な幸福よりも精神性の豊穣に尊さを見出そうとする。
道徳の教科書では当たり前に教えられてきたことだが、大人になれば‘手に入れられるしあわせ’の方がわかりやすく容易だから、よくよく忘れてしまうことである。

決してその判断が正しいかと言えばそうではないだろうが、それでも譲れないものがある。ただしそれは多分、やっぱり間違っていると思う。人の指摘にも助言にも耳を貸せない者に、そうそう適切な結果など待ってはいない。
それでも自分の価値を歪めてまで享受しようとするのだから、それなりの心持は決まっているのだと思う。
世界はとてもあやふやで、他人の眼からは見えないものばかりだ。




三文ゴシップ

三文ゴシップ

高橋優「ボーリング」

大変遅くなったが、やっとで「僕らの平成ロックンロール②」を手に入れるに至った。
全体を通してはちょっと評価しかねるのだが、総じて箭内さんってやっぱり広告、コンセプトの人間であって音楽プロデューサーではないのだなと痛感するミニアルバムであったように思う。良い意味でも悪い意味でも。



で、このアルバムを聴く主目的は



この曲。この曲が全てみたいなところである。
これぞ世の中に求められる高橋優…とわたくしは勝手に思っているのですが。
福笑い路線もいいのだけれど、「こどものうた」「素晴らしき日常」で衝撃的に名を馳せた彼としてはやはりこういう感じを忘れることがあってはならないでしょうぞ。



歌詞があまりにストレートで苦手意識を覚える人も多いと思うんだけど、これくらい素直でわがままになってくれてこそのカタルシス
本当に、まんまこういうことを歌ってくれるから気持ちが良い。



ボーリング、行きたいなあ。
次々なんでもなぎ倒してゆきたい。この曲はタイトルも秀逸なのだった。



僕らの平成ロックンロール2(初回盤)

僕らの平成ロックンロール2(初回盤)

三浦しをん「きみはポラリス」

文学は虚学である、というのは、文学部出身者なら結構な割合で言われた経験があるのではないかと思う。
わたしは卒業した大学が理系中心大学だったので特に、そういう肩身の狭い思いをさせられることがしばしばあった。
「文学部の論文って何するの?w」と聞かれると、答えるのも面倒なので「壮大な読書感想文書いてますww」と返すようにしていたこともあるw


だけれど、学べば学ぶにしたがって、文学を学ぶことの奥深さ、面白さに惹かれていったことを覚えている。実際行動に移すとなるとくじけてしまうこと間違いなしなのだが、文学の大学院で学んでいる社会人の方などを見ると羨ましいなあという純粋な気持ちに駆られる。
そんな文学部の学生だった頃、三浦しをん「きみはポラリス」の一節に励まされる、という話で友人と盛り上がったことがあったのを思い出した。


「明日からは餡をこねるのです」
わずかな沈黙さえも耐えがたく思われ、私は早口でしゃべった。
「文学とも、ましてや国の発展とも関係のない毎日で・・・」
私の言葉は掠れて途切れたが、先生はそれには気づかなかったのように少し微笑んだ。
「私も国のためになるようなことはしたことがないな」と先生は言った。
「それにね、蒔田さん。文学は確かに、餡をこねること自体には必要ないものかもしれない。だが、餡をこねる貴女自身には、必要という言葉では足らないほどの豊穣をもたらしてくれるものではないですか」

今引用していても、ちょっと泣きそうになった。笑

主人公は餡子屋さんの娘で、就職やキャリアとかのためではなく、いわゆる嫁入り前の修行、‘教養’を身につけるようにと大学の文学部に入った口だった。一昔前ならさもありなん、という感じである。

でも、文学を研究することに、どんどん惹かれて行く。それは恩師の存在というのが何より大きかったのだけれど、ともあれ、
文学とは人にとって何か、というのを、深く考え感じさせられることになるのだった。



ロケットは飛ばせないし、HIVも治せない。人を裁くこともできないし、お金を大きく動かすこともできない。
それでも、文学とはわたしたちの心に豊穣を与えてくれる。人が紡ぎだした言葉の連なりに、わたしたちは人の心の機微を感じる。そして自分の血となり肉となる。


文学とは豊穣、その言葉に救われるように毎夜学び、語り合い、今思えば全部青春なんだけど、そんなこんなしていた日々のことをふと思い出した。その友人がもうすぐ結婚式を挙げる。
卒業して3年が経とうとしているのだな、と改めて思った。


日々の豊穣を積み重ねて行きたいなあ。




きみはポラリス

きみはポラリス

母体回帰もしくは赦しとしてのNOT FOUND

学生時代の自分が知ったら心底驚愕すると思うのだけれど、今度のMr.children@宮城のツアーに参戦することになっ(てしまっ)た。ap bank fes '12以来ミスチルに触れる機会が多くなり、やはり恒常的に聴くわけではないが、名曲をたくさん作っているのだなあと今更感じ入ることしばしばとなった。スキマの大橋くんもミスチル大好きで、そう思い起こしてみれば影響受けまくりやろ!ライブ観てもその歌い方桜井さんでしょ!と思うことが本当によくある。w



わたしが好きだなと思うのはどちらかと言えば‘マスタードチルドレン’と称されている頃のほうで、その爛熟期のころなのかな、それともいわゆる‘カスタード’になり始めたころなのかな、微妙な境だけれども、そんなタイミングでリリースされた「NOT FOUND」を最近よく聴いてしまう。
自分が小学生のころに相当流行って、メロディなんか自分でもびっくりするくらい頭の中にきちんと入っていたのだけれど、最近歌詞をまじまじと読んでみてびっくりした。こんなに内省的な歌だったんだね。もっとあまあまなラブソングwなのかと思っていました。

わたしはどちらかと言えばテキスト論者寄りなので、この曲が桜井さんのプライベート云々の時期に作られた曲だとかいうのはこの際あまり重要なこととは考えていない。けれどそれを抜きにしても、この歌詞を読んでざっと感じるのは女性を巡っての葛藤と自己内省、ひいては正当化というわか りやすい心の在り方であろう。

僕はつい見えもしないものに頼って逃げる
君はすぐ形で示してほしいとごねる

という歌いだしこそ、オーソドックスな恋愛ソングのように感じられるけど、


矛盾しあった幾つもの事が正しさを主張しているよ
愛するって奥が深いんだなぁ

次のここ。もうここから既に正当化っていうか言い訳が始まる。笑
愛するゆえの気づきと言えばもちろんそうなのだけれど、じゃあ今までの愛とはなんだったのだろう、愛が深いと発見するに至らせたのは何なのか、という話になってくる。

あぁ 何処まで行けば解りあえるのだろう?
歌や詩になれない この感情と苦悩
君に触れていたい 痛みすら伴い歯痒くとも
切なくとも 微笑みを 微笑みを

恋人同士が互いに解りあう、ということだけと読めばそれまでだが、決して「君」のことだけに限定されていないのがたぶん肝。「君」以外にも、 解り合えていないものは恐らく沢山ある。
しかもこの歌詞を読む限り、相当な苦労を要する愛情であることが見て取れる。「この感情と苦悩」にぶちあたるとき、求めるのは「君」。触れていたい、微笑みがほしい、と思うところに、どうしてもわたしは母性への強い欲求を感じてしまうのである。。いやらしい意味じゃなくてね。結局、複雑な愛情の行き着く先として、「君」という女性の癒しに全ての昇華を求めているというか。解決し得ない問題だからこそ、どうしようもなく苦しいからこそ、君のそばに在ることで己のすべてを赦してほしい、という潜在下の欲求を感じるのであります。


で、

愛という 素敵な嘘で騙してほしい

とか言ってしまって(そりゃそうだよね現実に立ち返れば「痛みすら伴い歯痒」いわけだからねw)

自分だって思ってた人格(ひと)が また違う顔を見せるよ
ねぇ それって君のせいかなぁ

君のせいにすんなww 愛のせいにもすんなww
でもまあ、やっぱりここでもこの恋愛による気づきと正当化があるわけで。


あと どのくらいすれば忘れられんのだろう?
過去の自分に向けた この後悔と憎悪
君に触れていたい 優しい胸の上で
あの覚束無い子守歌を もう一度 もう一度

何を忘れるのかと…。
一番のサビにもあったけれど、この恋愛の周辺にはやはり色々大変なことがあったようですw
後悔くらいはいくらあっても、懺悔だなんて穏やかでない表現はなかなか無い。少なくとも当人の中では激しく苦悶するような何かしらがあって、 そこに縛られ続けているのは明らか。
で、その行き着く先はやはり「君」。しかも今回は「優しい胸の上」「子守唄」ときた…。ここに母性への回帰を感じずして何を感じろというのか。「君」は愛情の在り方について気づかせ考えさせてくれるだけでなく、その葛藤を赦し解き放ってくれる存在でもある。君の胸という女性の身体性、子守歌という女性の精神性。どちらにも寄りかかって寄り添って、主人公はそこに安楽を求めようとする。それはまるで幼いころにまどろんだ、母体への憧憬ともいうような。

昨日探し当てた場所に
今日もジャンプしてみるけれど
なぜか NOT FOUND 今日は NOT FOUND

どんなに苦悩してもそうそう見つからないものらしい。。。


ジェットコースターみたいに浮き沈み

それはそうなりますわね…っていうか本当に、いろいろあったんだろうなあ。この主人公。。ここの精神構造だけは女の子みたいだね…w
そして最後の大サビに向かうわけですが、

目の前に積まれた この絶望と希望

絶望・・・w
やっぱり相当大変だったみたいです。絶望とまで言い切る何か。しかし希望があるのも確かで、そこにまた寄り添う「君」の母性。それに横たわっていたい、苦楽をともに生きてゆきたい、自分の所業をどうにか昇華させてくれる場所であってほしい。彼女という象徴としての母性、母体への回 帰(いじわるな見方をすれば逃避だったり退避だったり)が、常にこの曲には歌われているように思う。
そこに人間味を感じて多くの人は共感するし、この曲そのものにわたしたちは赦されるような気がする。ああどんな生き方であろうとも人は弱く、 だからこそ人の温もりを求めて支えあおうと模索し続けるのだなあ、と。


テキスト論云々と冒頭に書いた。でもこうやって歌詞をひととおりなぞってからMr.childrenの当時に立ち返ってみると、やっぱりその頃の桜井さんは色々考えるところがあったのだろうなと思わずにはいられない。
それが正しいことか間違ったことなのかは文字通りNOT FOUNDでw、ともすればそれは過剰なまでの自己防衛・自己保身のための音楽ともとられかねないのだが、そこに普遍性を持たせてしまうのがどうしたってミスチルの凄いところである。


探してみるとこの人(たち)の楽曲には、そういうある種の恋愛についての正当化の歌詞が極めて多い(ように思われる)。自分の生き方に素直というか、生き方と作るものの世界が完全にリンクしてしまう類のクリエイターなんだろうなと思う。
そういうバイアスの中で見てしまっているというのは多分にあるし、それって全然テキスト論から外れてるじゃんって話なのですが、それにしても、極まった事象(と推測されること)でも表現の仕方によっては普遍性を獲得し得るということを改めて気づくに至った。
EXILEさんの「Ti Amo」ではそれとしか捉えられないことも、「君が好き」では多角的に受け止めることができるというこの表現力の豊饒の差異。(Ti Amoが悪いといっているわけではない。どちらもありで、でもこんなに違いがあるということ。)


いつかまたきちんと研究してみたいな、と思うこの歌詞ですが、いよいよ4月のライブが楽しみになるのでした。
観たら観たで、絶対ほの字(死語…)になるんだろうなと思っておりますw 乞うご期待(`・ω・´)



Mr.Children 1996-2000

Mr.Children 1996-2000